私が薪ストーブ屋になるまでの話

みなさん初めまして京都ストーブ販売 代表の山本と申します。現在52歳です。

私が京都北部の自然豊かな土地、綾部市にIターン(移住)してきたのは、今から約17年前のことです。

それまで長くアパレル業界に携わり、忙しくも充実した毎日を送っていたのですが、トレンドを追いかけ消費するばかりの暮らしに疑問を持ち、もっとプリミティブ(根源的)な生き方を模索する中で『土の暮らし』への想いを強く持つに至りました。

自然と共生した暮らしを求め一軒の古民家を購入しました。都会での勤めを続けながら、週末ごとに綾部に通って一年がかりでその古民家をセルフリノベーションしていたのですが(その時に薪ストーブも設置しました)、

その過程で『木組みの技術』の奥深さに魅せられた私は、ようやく会社を退職し、福知山の職業訓練学校に入校し、家具製作と木工の基礎をイチから学ぶことになりました。

『どんな環境であれ、生きぬく力を獲得すること』

それが私が田舎暮らしで得ようと考えていたことです。口先や言い訳の一切通用しない、本当の実力を持った人間になりたいと強く願っていました。

会得した木工技術・知識を活かすべく、ご縁のあった地元の建設会社に就職し、幸運にも念願だった「古民家を再生する事業」をリーダーとして任されることとなりました。

一般的に古民家の再生工事においては、通常は何をおいても「断熱性」と「気密性の向上」を第一に考えるのですが、それらを満たせずとも、そこにあるだけで圧倒的な暖かさが得られる「薪ストーブ」の凄さを、私はすでに自身の体験として痛感していました。

「古民家にとって薪ストーブは究極の暖房手段である!」

当時の「あらゆることが運命的・必然的につながっていく感覚」は今も鮮明に残っています。私が薪ストーブ事業を興すのはもう時間の問題でした。自身で悪戦苦闘して身に付けた技術が常に道を切り拓いてくれました。

やがて薪ストーブとカフェを併設したショップ『薪ストーブショップ&ガーデン kamokudo(カモクド)』をOPENしました。まだ薪ストーブカルチャーが十分に浸透していなかった北近畿において、欧米の環境基準をクリアーした『本物の薪ストーブ』をご紹介出来た事はkamokudoの果たした大きな功績であったと思います。

8年間の在職期間中には事業部長として、延べ150台以上の薪ストーブの新規設置&メンテナンスを手掛けました。通常の建築業務との兼務でもあり、肉体的に大変なことも多くありましたが、それでも実践的な技術と貴重な経験を積ませて貰う事が出来、今も宝石のようにキラキラと印象に残る本当に素晴らしい日々でした。

「好事、魔多し」と言いますが、順調だった日々は、ある日突然急転しました。

離れて暮らしていた父親が心肺停止状態で発見され、奇蹟的に一命はとりとめたものの重度の障害が残ってしまったのです。

病気がちの母親ひとりに介護の負担を負わせるのはしのびなく「悔いのない人生はどういうものか」を熟慮した結果、職を辞することを決意しました。今でもこの決断は間違いでは無かったと胸を張って言えます。

覚悟をしていた介護生活でしたが、病院のスタッフの皆様の献身的なサポートが功を奏したのでしょう、奇跡的な回復を見せた父はやがて退院できるまでに体力を取り戻しました。生存確率がコンマ数パーセントの窮地から帰ってきた父を本当に愛おしく誇らしく感じました。それから9カ月後に亡くなるまでに父と過ごした日々は、私の人生にとって掛け替えのないものになりました。

やがて地元の製材所に転職した私は、薪ストーブ用の薪を製造・販売する仕事を任され、責任感とやりがいを感じながら日々を過ごしていました。売上も順調に伸びていましたし、何よりも薪の配達時に簡易な薪ストーブメンテナンスをすることでお客様が喜んで下さるのが励みになりました。

「コツコツ頑張ってさえいれば、全ては以前のように順調に戻っていくのだろう。」

漠然とそう考えていた私でしたが、また思わぬ試練が降りかかってきたのです。


常に高い目標を掲げてそれを乗り越えることに夢中になっていました。

自身の成長と会社の成長がシンクロしていく事を信じてやみませんでした。

仕事へのモチベーションが高くなればなるほど、現状を如何に改善していくかに私のエネルギーは強く向かっていきました。

でも、そのことが期せずして「現状への否定=経営者個人の否定」であるかのように、経営者からは受け止められてしまったのです。

売上だけが順調に伸びていく中、幾度かの話し合いを経て、会社を解雇されることが正式に決定しました。事業部長に就任してわずか3か月目の真冬の出来事でした。

解雇理由は「一緒に働いていると劣等感を感じさせられるから・・・」

私には「そんなことを言われても・・・」という気持ちしかなかったのですが、方針が覆ることは無く、新しい年の幕明けと同時に突然『無職の身の上』になったのでした。

努めて明るく振舞っていた私でしたが、元旦の深夜に家族が寝静まってから独り薪ストーブの炎を見つめていると、無念さと悔しさで自然に涙があふれてきました。

「せっかくここまで頑張ってきたのに、まさか自分の人生にこんな理不尽なことがあるなんて・・・」

でも、私にはまだ小さい子供もいます。絶対にここで終わる訳にはいきません。ピンチをチャンスに変えるには今しかありません。

宗教を持たない私ですが、この時は思わず亡き父に祈りました。

「オヤジ、頼む。とにかく俺たち家族を守ってくれ。」

あの時、父が命がけで見せてくれた『奇蹟=死の淵からの生還』は、私の人生観を大きく変えるくらいのインパクトを持っていました。

それは「願えば叶う不可能もある」という事。

これまでの人生、責任ある立場で様々な経験を積ませて貰った私でしたが、そのことがかえって『臆病さ』を生み出してしまっていました。

経験も実力も、素晴らしい人とのご縁も、すでに身に付いていることは頭では理解していました。ただ、自信を持って行動していく勇気だけがありませんでした。

「自分の力で人生を切り拓ける。そんな事業経営者になろう!」

「そもそも、そういう人間になりたくて田舎で頑張って来たんじゃなかったか!」

自分を見つめ直す過程で多くの気付きがありました。

私は弱い者イジメが大嫌いで、幼少時代から常にガキ大将に喰ってかかっていた人間です。学生時代には理不尽な教師にハッキリと物を言って疎まれたり、就職してからも圧力をかけてくる相手には絶対に屈しないという強いこだわりを持って生きていました。

でも、その根底にあったのは「弱者=正義、強者=悪」といった単純な決めつけであったように思います。「経営者=権力のあるもの=強者」という思い込みが、私の言動のどこかに滲んでいたのかもしれません。その事が高じて相手との関係を悪化させていたのであれば、それは『身から出た錆』以外のなにものでもありません。

私を解雇せざるを得なかった、あの時の経営者の真の思いに寄り添える『懐の広さ』『本当の心の強さ』が、やはり私には足りていなかったのだと思います。

ここに至るまで随分とまわり道をしましたが、全ては人間性を高めるための経験であり、私にとって必要な出来事だったのだと、今では受け止められるようになりました。

「では、何を生業(なりわい)として生きていくのか?」

真っ先に私の脳裏に浮かんだのは、ゆっくりと大きく揺らめく炎の美しさと、その炎に照らしだされる家族の笑顔でした。もう答えはわかっていました。

前職でお世話になった多くのお客様からの声援が後押しとなり、私はもう一度薪ストーブの世界に戻る決意をしました。

今では件の経営者さんも私の大切なビジネスパートナーとして、薪ストーブ事業を全力で支えて下さっています。

様々な紆余曲折を経て、今の私は「店舗を持たない薪ストーブ屋」として多忙な日々を送らせていただいています。

あれから、さらに何百台の薪ストーブに関わってきたのか、薪ストーブの数だけお客様との素敵な出逢いがありました。

勇気を持って一歩を踏み出して良かった。今、本当に心からそう思います。

「明けない夜は無い」

「人生はシンプルに考えた方が上手くいく」と今なら自信をもって言えます。

辛くて苦しくてどうしようもなかった時、傍らにはいつも薪ストーブの美しい炎と暖かさがありました。

全てが信じられなくなったときにも「圧倒的な確かさ」として、その火は私たち小さな家族を暖めてくれました。

私は薪ストーブに救われた人間です。

だからきっと、薪ストーブに「恩返し」がしたいのだと思います。

五感に直接訴えかける「火」の力は太古の昔から人類にとって馴染み深いものでした。

畏怖する存在であった「火」を道具として扱いだしたことから、人類の文明はスタートしたのですが、皮肉にも現代人にとって「火」はとても遠い存在になりつつあります。

薪ストーブはそんな「火」をもういちど身近に手繰り寄せてくれる存在だと思います。

圧倒的な暖かさ、美しさ、便利さ、確かさ(そして怖さも)を皆さんにもっと伝えたい。

それが私の想いであり、何か大きなものに託された使命なのではないかと考えています。

是非、薪ストーブの素晴らしさを体験して下さい。

●薪ストーブ・マスターエンジニアリングプログラム(WMEP)技術者

●(元)日本暖炉ストーブ協会認定技術者

●京都府・再エネコンシェルジュ

●乙種4類 危険物取扱者

●甲種防火管理者

●京都府 宅地建物取引士

●日本バーベキュー協会・インストラクター